寝ても覚めても読書三昧だった少年期の私にとって、ロックは雑音そのものだった。
当時国内ではチェッカーズやら男闘呼組、さらには光GENJIに代表されるアイドルが大人気だったが、それらにはピクリとも反応することはなかった。
一方海外では、ジョージ・マイケルの「FACE」やGuns N' Rosesの「Sweet Child o' Mine」がヒットを飛ばし、チャートはポップロックとハードロック、R&Bなどが入り混じったごった煮の様相を呈していた。
今考えれば、ホワイトスネイクが年間チャートのベスト20に入っていること自体信じ難いが、音は激しくともメロディアスならOKという割とミーハーな感じで、80年代前半よりもテクニカルなバンドが台頭していた様に思える。
そんな中、 12歳の私に初期衝動を与えた存在は・・・
ジュリーである。
ジャ●ーズ事務所の代表ではなく、沢田研二の方だ。
あれ? と思われ方も少なくないだろうが、その当時は既にジュリー人気は下降線を辿っており、ジャニーズ系や秋元康プロデュースアイドルが人気の主軸だった訳で、言わば追体験に近いズレがあった。
最初のジュリー体験は、札幌に住む従兄弟のお兄ちゃんの部屋でのことだった。
「お前、ジュリー知ってるか? かーっこいいんだぞー」
と言ってダブルラジカセの再生ボタンを押すと、小気味の良いギターリフが流れてきた。
『TOKIO』である。
ジャニーズのグループではない。曲だ。
テッテレ テレレ テレレテレレレ〜 テッテレ テレレ テレレテレレレ〜
と始まるそれから、歌い出しの部分「そ〜らを飛ぶぅ〜 まぁ〜ちが飛ぶぅ〜 くもぉ〜を突き抜け星になるぅ〜」でもうヤラれていた。
さらに従兄弟は、その後直ぐにジュリーのコンサート映像を観せてくれたのだが、またそれが凄まじく格好良かったのである。
タケちゃんマンみたいなジャケットを羽織り、長い髪を振り乱しながら華麗に歌うその様は、色気の権化と言っても過言ではない程セクシーだった。
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ソロ初期のジュリーはそれまでのアイドル然としたスタイルではなく、ラメ入りのアイシャドーにシースルーのシャツを羽織るなど、英国に於けるグラム・ロックのそれに似たアプローチに傾倒していた。
「TOKIO」発表時には、電飾を施したスーツを着て、パラシュートでステージに降りてくるというド派手なパフォーマンスを披露したりと、年々そのスタイルはエスカレートしていったことにより、バックバンドのメンバーや往年のファンは離れていったそうだが、私はその時期のジュリーが最高に格好良いと思えて仕方がない。
アイドルというより、私の中でジュリーは数少ない国内のスターアーティストの一人に他ならず、後に魅了される氷室京介や吉井和哉よりもその輝きは強かったあたりは否定できない。
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そんなジュリーのおすすめは何か?
と問われたら、まず間違いなくアルバム単位ではなく、個々の曲をいくつか挙げるだろう。
ジュリーはスターだけど、アーティストとは言えない。
なぜなら、楽器を巧みに操る訳でもなければ、卓越した作曲能力がある訳でもない。つまり、他者が用意した曲を歌うシンガーであり、言わばアイドルそのものだからに他ならない。
故に、ジュリーが発表したオリジナルアルバムの中で私が好きなのは「思いきり気障な人生」か「いくつかの場面」くらいのもの。とにかくベストアルバム「ロイヤル・ストレート・フラッシュVol.1~3」を擦り切れるまで聴きまくっていた。
と、言う訳で、今回は私が好きなジュリーのナンバーをいくつか紹介して締めようと思う。
●カサブランカ・ダンディ
●ヤマトより愛をこめて
●あなたに今夜はワインをふりかけ
●おまえがパラダイス
●酒場でDABADA
●さよならをいう気もない
●きめてやる今夜
●背中まで45分
●ラム酒入りのオレンジ
挙げればキリがない程なので、このくらいに止めておこうと思うが、とにかく私の人生に於ける最初のロック・スターはジュリーこと沢田研二でしたというお話。
しかし文字にすると曲名がとっても昭和だなと。
「酒場でDABADA」なんてもうベタだし、「背中まで45分」とかもう意味わからないしね。曲は素晴らしいけど。
もし興味があれば一聴してみては?
へば。