かつて、外山三郎(仮名)というコピーライターをインタビューした事があった。
「コピーはアートではない」
彼は僅か120分のインタビュー中、その言葉を25回も放った。しかも吐き捨てる様にだ。
彼はアーティスティックなコピーライターを心底嫌い、我こそが王道と言わんばかりに、自身のコピーライティング哲学を語り倒した。
確かに彼が作ったコピーはどれも的確で、見るものを頷かせる作品ばかりなのだが、それを見て「よし、買おう!」とは思えなかった。
彼のコピーには、何が足りなかったのか?
雑誌の編集者からライターに成り、ライターから社長に。社長から色々経て編集者に戻った後、現在コピーライターとして働いている私が思うに、恐らくそれは【想像させる工夫】なのではないかと。
外山氏が嫌う著名コピーライターの筆頭は、コピーの神と言われる超大御所、糸井重里氏だという。
しかし残念ながら、私は糸井さんのコピーが大好きである。
そして糸井氏のコピーに於いて、最も衝撃的な点こそ【見る者に想像させる工夫と遊び】があるからに他ならない。
例えば、外山氏が手掛けた、某クソつまらないハリウッド映画のコピーを見てみよう。
【高度●●●●メートルから決死のダイブ!命をかけた生身のアクションに震える!】
・・・はい。
その映画、観たいですか? 正直私は観たくないです。安っぽいったらありゃしないし、何よりベタ過ぎて見ているこちらが赤面するレベルかなと。
一方の糸井氏は、、、
【見えぬものこそ。】
これ、知ってますかね?
ゲド戦記というジブリの中でも屈指の駄作と名高い一作のコピーなんですけど、作品の内容とは裏腹に秀逸してるなと。
観る前は、正直「はぁ?」って感じだったんですけど、あらすじを読んで何となくそのコピーの真意に近づいて、観た後になるほどと納得しました。
ポイントは文末の「こそ」にあって、そこで想像させるんです。見えぬものが最上であり、尊いと言わんばかりの思わせぶりに、つい興味を覚えていざ鑑賞するという。
これ、アートではないですよね?
ちゃんと一般心理を突いた素晴らしいコピーじゃないですか?
外山氏のコピーにはそういった引力など皆無で、只管にストレートという単調さ。
糸井氏の書くコピーって、どれもその類いの「引き」があるんです。だからついつい観てしまうし、自然と手が伸びてしまうというね。
西武百貨店の「おいしい生活」というコピーで覚える、無限のワクワク感。プレイヤーを選ばない、Motherの「おとなもこどもも、おねーさんも」というフリーターゲットな名文句然り、セフィーロの「くうねるあそぶ」に見える、自由な大人の必須アイテム感。
うん、どれも素晴らしい。
自己満足の言葉遊びばかりなんて外山氏はディスっていましたが、私はそう思わない。まるで無邪気な少年の悪戯書きであり、昨今に於ける謎の天才画家、バンクシーのそれと酷似していると思えて仕方ないのは私だけだろうか?
とは言えコピーライターには、商業的な成功へ導くきっかけ作りという大きな使命がある。確かに、突飛でお洒落なシティ派コピーとも言うべき糸井氏の作品は、彼の知名度と実績があってこそ支持されたあたりは否めない。しかし、良いものは良い。
あんなもん、ポピュラーミュージックだろ? と揶揄された天才アーティスト、大瀧詠一さんのプロダクトがそうである様に、一見売れ線のメインストリームだと思われたものの、実は他に類を見ない、非常に稀有な作品だったりするだろう。
ズバリ、糸井氏の作品もそんな雰囲気をまとっている。
外山氏には悪いが、私が今、職場でセコセコ量産している三下コピーの数々は、外山氏の生み出すそれらとレベルは変わらない。
言ってしまえば外山氏は、案件に恵まれていただけの事。売れる商品やサービスは、売り出し方に関係なく人目についた時点で勝手に売れていくものだ。
平凡で三流のコピーライターには、裸の王様が滅法多い。もちろん御多分に漏れず、外山氏も例外ではないのだけどね。
他人を批評できる身分ではないが、そんな輩が多いものだから、いつまで経っても仕事に没入できないのだろう。
完全に飽きたら、給与が安くとも編集者に戻りたいものだ。
コピーライターなんて本当に下らない商売だよ。もし貴方がそれを目指すなら、悪いことは言わないから今すぐ目標を変えるべきだ。
そのくらい、無意味で面白味のないお仕事ですよ。